二人でしばらく黙って、また行き交う人たちを見るともなく眺めていた。僕はもう何も考えていなかった。ただぼんやりとしていた。
しばらくして彼女が「歩こう」って言った。僕は頷いた。
出店を覗きながら、神社の出口の方へ向かってのんびり歩いた。肌を撫でる夜風が気持ちよかった。
途中の金魚すくいの出店で、何人かの人たちがゴム製のプールを囲んでいた。僕と彼女は、しゃがんだその人たちの後ろに立って、上から様子を覗いていた。
ゴム製のプールは、小さい頃アパートの前で遊んでいたことを思い出させた。当時、父親の仕事の関係の宿舎に住んでおり、僕と同じくらいの年の子たちが何人もそのアパートに住んでいた。夏になるとアパートの前には3つくらいのプールが並び、幼稚園に通っていた頃の僕たちは、男も女もなくプールで遊んでいた。
家には、金魚を飼っている水槽もあった。祭りで金魚掬いをしたことが何回かあった。でも金魚を掬えた記憶はない。でも掬えなくても、何匹かの金魚をプレゼントされた。出店の人が小さな赤い金魚を小さなビニール袋に入れてくれるのを、ドキドキした気持ちで見た年の頃が僕にもあった。袋の上の方で縛られたピンクの紐を手首にかけると、特別な気分になれた。少しときめきながら、金魚を家に帰って水槽に移すが、多くの金魚はすぐに死んでしまう。生き物の死を目の前で見ても、それを自分の死に繋げて考えたりはできない。水槽やビニール袋の中にいた金魚は、環境の変化にきっと弱ってしまっていたのだろう。でも中には生き延びる金魚がいて、はじめの数週間を乗り切ると、その後はとても長生きする。長い時間をかけて、少しずつ大きくなり、金魚には見えないくらいに大きくなるのもいる。
僕の前にしゃがんでいた女の子の、金魚を追いかけていた網が力なく破れた。彼女が「あーあ、やぶれちゃった」と残念そうに言って、笑顔で立ち上がって近くにいた両親の方へ行ってしまった。僕の前のスペースが空くと、店のオヤジが声をかけてきた。
「おにいちゃん、やってきなよ」
僕は、彼女も楽しんでくれるかもしれないし、なんとなくやってみるかと思い、100円を店のオヤジに渡して、網をもらった。
網を水につけると、紙の部分が濡れていかにも頼りない手ごたえになった。僕は網を多くの金魚が一団になっているところへゆっくりと動かしてみた。一斉に多くの小さな赤い金魚と中に混じった黒の出目金なんかが素早く網の左右を通り、逃げていく。
網を動かしていっても一匹だけ動かない金魚がいた。その金魚は水の中で微かにひれを動かしている以外、微動だにしなかった。
横で立ったままの彼女が感情のない声で唐突に言った。
「金魚って生きている感じがしない」
僕はこの動かない金魚のことを言っているのかと思った。
「ひれが動いているから生きているよ」
「私は観賞用のものを観賞したいとは思わない」
彼女の顔を見たが、無表情で何を考えているのか全く分からなかった。そこには感情のようなものは窺えなかった。どうやら彼女はこの動かない金魚のことを言っているわけではないようだ。
「金魚って生きている感じがしない」
彼女はもう一度そう言った。彼女の様子が変だと僕は気づいた。
「どうしたの?大丈夫?」
「私は観賞用のものを観賞したいとは思わない」
僕は、別に金魚だけが観賞用なわけではないと思った。人間だって、僕だって観賞用のようなものだと思ったけど、それは今、口にすべき言葉ではない気がした。
ふと顔を上げて、店のオヤジを見ると、店のオヤジの顔が金魚に変わってしまっていた。
「ウワッ」
僕は驚いて、小さな呻き声を出しながら、尻を地面についた。訳が分からず、周囲を見ると参道を行き交う人たちみんなが金魚に変わってしまっている。
僕は彼女を見た。彼女は彼女のままだった。
「みんな金魚に変わってしまった」
僕は彼女に訳の分からない声を出して訴えていた。
「みんな金魚に変わってしまったわけじゃない。元々、金魚だったのよ」
彼女は平気な顔をして言った。
「僕だって観賞用だ。僕も金魚と一緒だよ」
「あなたも金魚に変わってしまったのね」
彼女の冷たい声が聞こえた。
僕は大量の金魚が泳ぐプールの上に頭を突き出した。水面には金魚に変わってしまった僕の姿が映っていた。水面の向こうを優雅に泳ぐ本物の金魚が見える。どうせ金魚になるなら、本物の金魚になる方がよほどマシだ。
人のままでいるのは彼女だけだった。少なくとも僕の目に映る彼女は、彼女のままで人のままだった。彼女が僕に不気味に微笑みかけた。
気付くと僕は白い壁を見つめていた。それが何を意味するのか、ここがどこなのか、自分が何をしているのか、混沌としたままでそういった事象のピントが合わない。僕が今までいた場所は何だったのか、フィルムの切れた映画でも観ていたかのようだ。いやあれは映画を見ていたというような感覚ではない。どこか別の世界に自分が入り込んでいた、あるいは世界が自分を飲み込んでいたといった感じだった。いずれにしろ、その世界は何の予兆もなくブツっと途切れた。そして気づくと僕の目は開いていて、何もない白い壁を見つめていた。それが今僕に起こったことだ。
僕は今まで夢でも見ていたのだろうか。でも、目をこすることもなかったし、伸びをすることもなかった。眠りから醒めたばかりのはずなのに、眠気など少しもなかった。今まで見ていたものはきっと夢ではない。夢がこんな終わり方をすることはないし、夢の終わりはつまりは眠りからの覚醒でもある。僕は眠っていたという感覚がまるでなかった。ただ唐突に別の世界から放り出され、ここに戻ってきた。その表現が適切な気がした。
今まで観ていたものが夢ではないという仮説のもと、その証拠となるものがないか考えてみた。そして僕は一つの事実に思い当たる。夢は白黒の夢を見る人とカラーの夢を見る人がいると聞いたことがある。これまで僕はカラーの夢を見たことがなかった。でも、今まで見ていたものは鮮やかすぎるほど色に満ちていた。僕はこれが夢ではないのだとほぼ確信した。夢でないのだとしたら、今のはいったい何だったのだろう。
僕は、はっと気づいて鏡の前へ慌てて立った。鏡の中にいるのは金魚の姿をした僕だった。窓を開けた。窓の外は、冬だった。季節は冬に戻っている。窓から風に舞って入ってきた雪が目の前をちらついた。
『ここではないどこか、今ではないいつか』と『イマココイツモココイマ』の中間のような場所にあるものとして
しばらくして彼女が「歩こう」って言った。僕は頷いた。
出店を覗きながら、神社の出口の方へ向かってのんびり歩いた。肌を撫でる夜風が気持ちよかった。
途中の金魚すくいの出店で、何人かの人たちがゴム製のプールを囲んでいた。僕と彼女は、しゃがんだその人たちの後ろに立って、上から様子を覗いていた。
ゴム製のプールは、小さい頃アパートの前で遊んでいたことを思い出させた。当時、父親の仕事の関係の宿舎に住んでおり、僕と同じくらいの年の子たちが何人もそのアパートに住んでいた。夏になるとアパートの前には3つくらいのプールが並び、幼稚園に通っていた頃の僕たちは、男も女もなくプールで遊んでいた。
家には、金魚を飼っている水槽もあった。祭りで金魚掬いをしたことが何回かあった。でも金魚を掬えた記憶はない。でも掬えなくても、何匹かの金魚をプレゼントされた。出店の人が小さな赤い金魚を小さなビニール袋に入れてくれるのを、ドキドキした気持ちで見た年の頃が僕にもあった。袋の上の方で縛られたピンクの紐を手首にかけると、特別な気分になれた。少しときめきながら、金魚を家に帰って水槽に移すが、多くの金魚はすぐに死んでしまう。生き物の死を目の前で見ても、それを自分の死に繋げて考えたりはできない。水槽やビニール袋の中にいた金魚は、環境の変化にきっと弱ってしまっていたのだろう。でも中には生き延びる金魚がいて、はじめの数週間を乗り切ると、その後はとても長生きする。長い時間をかけて、少しずつ大きくなり、金魚には見えないくらいに大きくなるのもいる。
僕の前にしゃがんでいた女の子の、金魚を追いかけていた網が力なく破れた。彼女が「あーあ、やぶれちゃった」と残念そうに言って、笑顔で立ち上がって近くにいた両親の方へ行ってしまった。僕の前のスペースが空くと、店のオヤジが声をかけてきた。
「おにいちゃん、やってきなよ」
僕は、彼女も楽しんでくれるかもしれないし、なんとなくやってみるかと思い、100円を店のオヤジに渡して、網をもらった。
網を水につけると、紙の部分が濡れていかにも頼りない手ごたえになった。僕は網を多くの金魚が一団になっているところへゆっくりと動かしてみた。一斉に多くの小さな赤い金魚と中に混じった黒の出目金なんかが素早く網の左右を通り、逃げていく。
網を動かしていっても一匹だけ動かない金魚がいた。その金魚は水の中で微かにひれを動かしている以外、微動だにしなかった。
横で立ったままの彼女が感情のない声で唐突に言った。
「金魚って生きている感じがしない」
僕はこの動かない金魚のことを言っているのかと思った。
「ひれが動いているから生きているよ」
「私は観賞用のものを観賞したいとは思わない」
彼女の顔を見たが、無表情で何を考えているのか全く分からなかった。そこには感情のようなものは窺えなかった。どうやら彼女はこの動かない金魚のことを言っているわけではないようだ。
「金魚って生きている感じがしない」
彼女はもう一度そう言った。彼女の様子が変だと僕は気づいた。
「どうしたの?大丈夫?」
「私は観賞用のものを観賞したいとは思わない」
僕は、別に金魚だけが観賞用なわけではないと思った。人間だって、僕だって観賞用のようなものだと思ったけど、それは今、口にすべき言葉ではない気がした。
ふと顔を上げて、店のオヤジを見ると、店のオヤジの顔が金魚に変わってしまっていた。
「ウワッ」
僕は驚いて、小さな呻き声を出しながら、尻を地面についた。訳が分からず、周囲を見ると参道を行き交う人たちみんなが金魚に変わってしまっている。
僕は彼女を見た。彼女は彼女のままだった。
「みんな金魚に変わってしまった」
僕は彼女に訳の分からない声を出して訴えていた。
「みんな金魚に変わってしまったわけじゃない。元々、金魚だったのよ」
彼女は平気な顔をして言った。
「僕だって観賞用だ。僕も金魚と一緒だよ」
「あなたも金魚に変わってしまったのね」
彼女の冷たい声が聞こえた。
僕は大量の金魚が泳ぐプールの上に頭を突き出した。水面には金魚に変わってしまった僕の姿が映っていた。水面の向こうを優雅に泳ぐ本物の金魚が見える。どうせ金魚になるなら、本物の金魚になる方がよほどマシだ。
人のままでいるのは彼女だけだった。少なくとも僕の目に映る彼女は、彼女のままで人のままだった。彼女が僕に不気味に微笑みかけた。
気付くと僕は白い壁を見つめていた。それが何を意味するのか、ここがどこなのか、自分が何をしているのか、混沌としたままでそういった事象のピントが合わない。僕が今までいた場所は何だったのか、フィルムの切れた映画でも観ていたかのようだ。いやあれは映画を見ていたというような感覚ではない。どこか別の世界に自分が入り込んでいた、あるいは世界が自分を飲み込んでいたといった感じだった。いずれにしろ、その世界は何の予兆もなくブツっと途切れた。そして気づくと僕の目は開いていて、何もない白い壁を見つめていた。それが今僕に起こったことだ。
僕は今まで夢でも見ていたのだろうか。でも、目をこすることもなかったし、伸びをすることもなかった。眠りから醒めたばかりのはずなのに、眠気など少しもなかった。今まで見ていたものはきっと夢ではない。夢がこんな終わり方をすることはないし、夢の終わりはつまりは眠りからの覚醒でもある。僕は眠っていたという感覚がまるでなかった。ただ唐突に別の世界から放り出され、ここに戻ってきた。その表現が適切な気がした。
今まで観ていたものが夢ではないという仮説のもと、その証拠となるものがないか考えてみた。そして僕は一つの事実に思い当たる。夢は白黒の夢を見る人とカラーの夢を見る人がいると聞いたことがある。これまで僕はカラーの夢を見たことがなかった。でも、今まで見ていたものは鮮やかすぎるほど色に満ちていた。僕はこれが夢ではないのだとほぼ確信した。夢でないのだとしたら、今のはいったい何だったのだろう。
僕は、はっと気づいて鏡の前へ慌てて立った。鏡の中にいるのは金魚の姿をした僕だった。窓を開けた。窓の外は、冬だった。季節は冬に戻っている。窓から風に舞って入ってきた雪が目の前をちらついた。
『ここではないどこか、今ではないいつか』と『イマココイツモココイマ』の中間のような場所にあるものとして
- 2010.08.28 Saturday
- 小説(自作)・オリジナル
- 18:13
- comments(0)
- trackbacks(0)
- by チンパン