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金魚と林檎6

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     二人でしばらく黙って、また行き交う人たちを見るともなく眺めていた。僕はもう何も考えていなかった。ただぼんやりとしていた。
     しばらくして彼女が「歩こう」って言った。僕は頷いた。

     出店を覗きながら、神社の出口の方へ向かってのんびり歩いた。肌を撫でる夜風が気持ちよかった。
     途中の金魚すくいの出店で、何人かの人たちがゴム製のプールを囲んでいた。僕と彼女は、しゃがんだその人たちの後ろに立って、上から様子を覗いていた。
     ゴム製のプールは、小さい頃アパートの前で遊んでいたことを思い出させた。当時、父親の仕事の関係の宿舎に住んでおり、僕と同じくらいの年の子たちが何人もそのアパートに住んでいた。夏になるとアパートの前には3つくらいのプールが並び、幼稚園に通っていた頃の僕たちは、男も女もなくプールで遊んでいた。
     家には、金魚を飼っている水槽もあった。祭りで金魚掬いをしたことが何回かあった。でも金魚を掬えた記憶はない。でも掬えなくても、何匹かの金魚をプレゼントされた。出店の人が小さな赤い金魚を小さなビニール袋に入れてくれるのを、ドキドキした気持ちで見た年の頃が僕にもあった。袋の上の方で縛られたピンクの紐を手首にかけると、特別な気分になれた。少しときめきながら、金魚を家に帰って水槽に移すが、多くの金魚はすぐに死んでしまう。生き物の死を目の前で見ても、それを自分の死に繋げて考えたりはできない。水槽やビニール袋の中にいた金魚は、環境の変化にきっと弱ってしまっていたのだろう。でも中には生き延びる金魚がいて、はじめの数週間を乗り切ると、その後はとても長生きする。長い時間をかけて、少しずつ大きくなり、金魚には見えないくらいに大きくなるのもいる。
     
     僕の前にしゃがんでいた女の子の、金魚を追いかけていた網が力なく破れた。彼女が「あーあ、やぶれちゃった」と残念そうに言って、笑顔で立ち上がって近くにいた両親の方へ行ってしまった。僕の前のスペースが空くと、店のオヤジが声をかけてきた。
    「おにいちゃん、やってきなよ」
     僕は、彼女も楽しんでくれるかもしれないし、なんとなくやってみるかと思い、100円を店のオヤジに渡して、網をもらった。
     網を水につけると、紙の部分が濡れていかにも頼りない手ごたえになった。僕は網を多くの金魚が一団になっているところへゆっくりと動かしてみた。一斉に多くの小さな赤い金魚と中に混じった黒の出目金なんかが素早く網の左右を通り、逃げていく。
     網を動かしていっても一匹だけ動かない金魚がいた。その金魚は水の中で微かにひれを動かしている以外、微動だにしなかった。
     横で立ったままの彼女が感情のない声で唐突に言った。
    「金魚って生きている感じがしない」
     僕はこの動かない金魚のことを言っているのかと思った。
    「ひれが動いているから生きているよ」
    「私は観賞用のものを観賞したいとは思わない」
     彼女の顔を見たが、無表情で何を考えているのか全く分からなかった。そこには感情のようなものは窺えなかった。どうやら彼女はこの動かない金魚のことを言っているわけではないようだ。
    「金魚って生きている感じがしない」
     彼女はもう一度そう言った。彼女の様子が変だと僕は気づいた。
    「どうしたの?大丈夫?」
    「私は観賞用のものを観賞したいとは思わない」
     僕は、別に金魚だけが観賞用なわけではないと思った。人間だって、僕だって観賞用のようなものだと思ったけど、それは今、口にすべき言葉ではない気がした。
     ふと顔を上げて、店のオヤジを見ると、店のオヤジの顔が金魚に変わってしまっていた。
    「ウワッ」
     僕は驚いて、小さな呻き声を出しながら、尻を地面についた。訳が分からず、周囲を見ると参道を行き交う人たちみんなが金魚に変わってしまっている。
     僕は彼女を見た。彼女は彼女のままだった。
    「みんな金魚に変わってしまった」
     僕は彼女に訳の分からない声を出して訴えていた。
    「みんな金魚に変わってしまったわけじゃない。元々、金魚だったのよ」
     彼女は平気な顔をして言った。
    「僕だって観賞用だ。僕も金魚と一緒だよ」
    「あなたも金魚に変わってしまったのね」
     彼女の冷たい声が聞こえた。
     僕は大量の金魚が泳ぐプールの上に頭を突き出した。水面には金魚に変わってしまった僕の姿が映っていた。水面の向こうを優雅に泳ぐ本物の金魚が見える。どうせ金魚になるなら、本物の金魚になる方がよほどマシだ。
     人のままでいるのは彼女だけだった。少なくとも僕の目に映る彼女は、彼女のままで人のままだった。彼女が僕に不気味に微笑みかけた。


                魚

     
     気付くと僕は白い壁を見つめていた。それが何を意味するのか、ここがどこなのか、自分が何をしているのか、混沌としたままでそういった事象のピントが合わない。僕が今までいた場所は何だったのか、フィルムの切れた映画でも観ていたかのようだ。いやあれは映画を見ていたというような感覚ではない。どこか別の世界に自分が入り込んでいた、あるいは世界が自分を飲み込んでいたといった感じだった。いずれにしろ、その世界は何の予兆もなくブツっと途切れた。そして気づくと僕の目は開いていて、何もない白い壁を見つめていた。それが今僕に起こったことだ。
     僕は今まで夢でも見ていたのだろうか。でも、目をこすることもなかったし、伸びをすることもなかった。眠りから醒めたばかりのはずなのに、眠気など少しもなかった。今まで見ていたものはきっと夢ではない。夢がこんな終わり方をすることはないし、夢の終わりはつまりは眠りからの覚醒でもある。僕は眠っていたという感覚がまるでなかった。ただ唐突に別の世界から放り出され、ここに戻ってきた。その表現が適切な気がした。
     今まで観ていたものが夢ではないという仮説のもと、その証拠となるものがないか考えてみた。そして僕は一つの事実に思い当たる。夢は白黒の夢を見る人とカラーの夢を見る人がいると聞いたことがある。これまで僕はカラーの夢を見たことがなかった。でも、今まで見ていたものは鮮やかすぎるほど色に満ちていた。僕はこれが夢ではないのだとほぼ確信した。夢でないのだとしたら、今のはいったい何だったのだろう。

     僕は、はっと気づいて鏡の前へ慌てて立った。鏡の中にいるのは金魚の姿をした僕だった。窓を開けた。窓の外は、冬だった。季節は冬に戻っている。窓から風に舞って入ってきた雪が目の前をちらついた。


               りんご


    『ここではないどこか、今ではないいつか』と『イマココイツモココイマ』の中間のような場所にあるものとして


    金魚と林檎5

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       あたりはすっかり暗くなっていた。このへんの夜は東京の夜と違って、ずっと深く暗い闇になる。澄んだ闇の中で、奥行きのよく分からない星たちの光が瞬いている。屋台からの電源装置の稼動するブーンという音と、周囲の茂みに生息しているであろう虫たちの声とが混ざり合って、バックグラウンドミュージックを奏でている。祭りに来た人たちの声が、バックの音から微かに漏れ聞こえてくる。昼間の熱は気化し、大気中へ消え失せ、秋の訪れを感じさせる爽やかな夜の風が肌を撫でていった。

      「なんで苦しいのにこんなことをしているんだろう」と僕はつぶやいてみた。
       彼女はそのつぶやきにすぐ答えてくれた。
      「私たちの中で誰かがそれを求めているからだよ。誰かがそれを求めている限り、苦しいけど、この苦しみは誰にも渡したくないし、持っていなければならないものだと思う」
       僕は彼女のこういう強さが好きなのだと思った。彼女の言葉は、僕を安心させる力を持っている。
      「最近、感じている予感のようなものについて話していいかな」
      「聞かせて」と、彼女は顔を少し前に傾け、僕の顔を見て言った。
      「これまで僕がしてきたことは、一つのテーマのようなものに沿って、練りあがったものをまとめて書いておく、ということなんだけど、それは決してそれほど大きな固まりではなかった。だから僕はずっと僕には長いものを書く才能が欠落しているのだと思っていた。でも最近、出来上がったはずのそのまとまりが、その後練り上げたものとまた繋がって、より大きなものに練り上がったりするんだ。その繋がった瞬間は、さっき話した恍惚が伴うもので、気持ちいいし、快感なんだ。それをまた丁寧に言葉にしていく。これを繰り返しているうちに、次第に長い大きな固まりとなって、これまでよりもっと多くのことを含蓄した文章が書けるんじゃないかっていう予感のようなものがしているんだ。ある意味では、それは自分の意思とは関係のないところで起こっていることで、長くしようとして長くなったんじゃなくて、自然と長くなっていくもので、そういう風に生まれてきたものなら自分で納得がいくと思うんだ。長編小説が僕にも書けるかもしれない、そんな気が最近してきたんだ」
      「嬉しそうだね。すごくいい予感なんだ」
      「少しワクワクしているんだと思う。自分でも何が出来るか分からないから。書くことなんて、誰のためでもない、自分のためなんだ。だって、そうじゃなきゃ続けられないだろう。それはとても孤独な作業で時々どうしようもなく辛くなるんだけど、君に読んでもらいたいって思えると、その孤独な作業は孤独でなくなるんだ。一人ぼっちの作業ではあるけれども、孤独ではない。頭の中にあるものを丁寧に言葉に置き換えていく作業に対する辛さだけになる。それに伴う半ば痛みのような孤独がなくなる。それで書き続けることができるんだ。そして、自分の納得の行くところまで書き上げたときは、やっぱりとても気持ちいい。それは達成感なんだろうと思う。そしてこれを読んだら君はどう感じるだろうって思う。君に読んで欲しいって思う」
       彼女は、かすかに「うん」って言った。「あなたがあなたであることによって生まれる物語」
      「そう。その人がその人であることによって生まれざるをえない喜びや悲しみがあるだろう。僕はそういうのを感じるのが好きなんだよ。もちろん、それに対する好みはある。それが人に対する好みにそのまま繋がっている気がする」
      「その人がその人であることによって生まれざるをえない苦しみとか」
      「苦しみ。それが最も美しいところから生まれてくるものなのかもしれない。あるいは美しいものを生むためには、苦しみを伴わなければならないのかもしれない。少なくとも苦しみを伴わないで、価値あるものを生もうなんて虫がよすぎるよ。その人が、他ならぬその人であることによって生まれざるを得ないものを大事にしたいんだ。僕は、薔薇の花が薔薇の花を咲かせるところが見たいし、紫陽花の花が紫陽花の花を咲かせるところが見たいんだ。薔薇が紫陽花の花を咲かせたり、紫陽花が菊の花を咲かせるところが見たいわけじゃない。自分の中の自分に正直に従いたいんだよ。それが一番気持ちのいいことだから。その人らしさを感じたいんだよ。自然の摂理のようなものを。そういうのは個人だけじゃなくて、世界や宇宙にも存在していて、そういう自然の摂理を数式で抽出してくれば数学の公式や物理の公式が生まれるし、言葉で抽出することが出来ればそれはとても美しい詩になるはずだ。僕たち一人一人が宇宙みたいなものだってことだと思う。そう感じることがある」
      「椎名林檎の『ありあまる富』って歌を知ってる?」
       僕はその歌を聴いたことがなかった。
      「聴いてみて。人に見透かされてるような恥ずかしさと、そんな事を気にしてしまう自分の傲りに胸がキュッっとなって、涙がでちゃった。価値は生命に従ってついてるのよ。だから、私はホントに只の私で、どうしようもない癖に絵とか描いてしまっているの」

       価値は生命に従ってついている、か。短くて力強いと思った。輪郭がはっきりしていて、手触りがしっかりしていて、正確な言葉だ。僕はそういう言葉のことも好きだった。そういう言葉を僕にポンと投げてくれる彼女にいつも魅かれてしまう。
       彼女の言葉はいつも魅惑的だ。そして彼女自身が魅惑的だった。僕は彼女との会話をそっと切り取って大事にしまっておき、いつか物語にして人に見せて自慢したくなってしまう。


      金魚と林檎4

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         彼女が「みんな楽しそうに見える」って、独り言のようにつぶやいた。
         僕は彼女の顔を窺ったが、表情からもそれが独り言だったのどうかは分からなかった。
        「そうだね」
         僕の声はどこか宙にふわっと浮かんでいってしまうような手応えのない響きがした。浮かんでいった声がすっかり霧消した頃に彼女は再び口を開いた。
        「ねえ、私、ホントは少し苦しいんだ」
         僕はその言葉の重みを確かめてから、「うん」とだけ言った。
        「絵を描いてるときにね、私、苦しいんだ」
         また、たっぷり10秒くらい間があってから、彼女は言い直した。
        「絵を描いてる時じゃないな。絵を描く前にね、頭の中で無意識に目に映るものの印象や、受けた感情が自然に練り上がっていって、それが練り上がるまでの間、心と身体が少しずつ苦しいの」
         僕は彼女の顔を少し下から覗き見て、肯定する表情をした。そして、視線を戻してから「うん」とだけ言った。
        「自然と云うのは、ちょっと、語弊かな。勝手に練り上げていく頭の為に、心と身体が少しずつ苦しいの。でも身体が描きたいとしている為の痛みなら、仕様が無いなと考えたり。その痛みを訴えてたくて、身体が描いてるのか、どちらが正解かなんて面倒だから、そんなの卵が先か鳥が先かみたいなものでしょう?自分は一つでも、脳は一つでも、身体が一つでも、いつもピッタリな事は少なくて、そもそも心なんて臓器はないのに、いつだってそれに一つの身体を幾つにもされてしまうんだから」
         彼女は一言一言、感覚を正しく伝えるために言葉を選んで話した。僕には、そのペースが、彼女の声が心地よかった。たった今聞いたばかりの、その出来たての言葉について考えていた。僕が文章を書く前に、普段生活しながら頭の中でアイデアのようなものたちが蠢いているときのことを思い出していた。僕はそいつらが蠢いているのが嫌いじゃなかった。蠢いているものが何かとぶつかって唐突に言葉が浮かんできたりする瞬間は、何か恍惚のようなものを伴うもので、その恍惚のことが好きだった。それは小さな射精のようなものに近かった。イメージがどこかに達したのだ。他の何かと結びつくことができたのだ。
         しかし小さな恍惚はあるのだが、中々全体像が出来上がらないときはもやもやとした感覚、ずっと何かが頭を、お腹の中を、身体を蠢いていて、結実しない感じがもどかしかった。そんな何かが蠢き続ける感覚が面倒になってしまうときがある。それは腰を振るのも面倒になり、射精したいのにいつまでたっても頂点に達しないSEXに近かった。もしかしたら便秘症の女の子の感覚にも近いのかもしれない。
        「今、何考えてたの?」
         その質問は二人の会話では、登場回数の多い質問だった。僕はよく彼女に自分が何を考えているか見透かされているような気持ちになることがあった。
         僕が「もうばれてそう」って言うと、彼女は笑いながら、「私はエスパーじゃないよ」って言うのだ。
         二人の間には一つルールがあった。それは素直であること。相手に言わないことはあってもいいが、嘘はつかない。ささやかで、難しいルール。それで僕は、スポーツマンシップを発揮して正々堂々と素直に答えた。
        「SEXのこと」
         彼女は少し笑った。「なんで今そんなこと考えてるの?」
         僕は恍惚について、丁寧に言葉を選んでゆっくりと話した。
         彼女はそれを聞いた後、黙って何かを考えていた。
        「そんな感覚だと思う。イキたいのに、イッていいって言ってもらえないみたいに」
        「君は、相手がイッテいいって言わないとイカないの?」
        「イジワル」
         僕はその言葉に曖昧な顔になった。
        「似ているかもしれないなあと思って。イメージが出来上がって、絵を実際に描く作業をしているときは、その練り上がったものを移している感じで、もう苦しいって感じではないんだ。でも、そのときは鮮度みたいのが本当に大事だから、集中していて、その集中している私は私じゃなくて別の誰かみたいなの。紙を挟んで鏡の様に、反対側に自分が居て同じ動きをしている様な、少し非現実的で、気持ちがいいんだ」
        「きちんとその感覚を理解できたか自信はないけど、こんな感じかなって想像はできるよ。自分が文章を書くときのことと比べたりして。絵を描くことは長編小説を書くことよりは、短編小説を書くことの方に似ているのかもしれない」
        「どんな風にして書くの?」
        「短いものを書くときは、頭の中に君の言うところの練り上がったもの、頭の中のイメージやら言葉の断片やらが蠢くのをやめて、形が定まってから、それを一つずつ言葉に置き換えていくような感じだよ。頭の中には完成形があるから、その鮮度を落とさないように言葉に置き換えていくのは地道な作業だよ。絵と違うのは情熱がほとばしるように一気に仕上げてしまわなくていいことかもしれない。もちろん一気に置き換えていったっていいのだけど、後でもう一度冷静になって、言葉を加えたり、削ったり、置き換えたり、入れ替えたりすることができる。絵は、もう一度筆を入れ直すのが、文章と比べると難しいかもしれない」
        「絵を描くとき、既に頭に出来あがったものを移す作業に近いって言ったけど、その時はホントに鮮度が大切で、出来上がりを焦るあまり、出来合りに雑さが出ちゃって、頭のものとの違いに納得出来ずにいる事は、よくあるよ。でもね、そのときの勢いみたいなのが大事だと思うから、描き直したりはしない」
        「うん」
         僕は再び彼女に話しかけた。
        「長編小説の場合は、蠢いている途中のものをもう言葉に置き換えてしまう感じがする。それから更にどんな風に蠢いていくのか、脳と紙に表れてきた言葉たちとを眺めながら、何が生まれてくるのか耳を澄ますような感じだと思う。こんなこと言っても、まだそんなに長い小説は書いたことがないのだけど」
         彼女は、「imageと感情と記憶を練る作業」と言った。「長編になると、練りながら書いていくことになるってことだよね。練っては書いて、練っては書いて。本当に地道な作業」
         僕は彼女の言葉を聞いて、僕の言ったことをちゃんと理解してくれていると思った。


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