タイトル 『ホルマゲドン』
「ゴホッ、ゴホッ」
ボロ布で、かろうじて隠すべきところだけは隠れている薄汚いオジサンがむせている。
「大丈夫か」
声をかけるオジサンもやはり同様の格好で、頭も禿げ上がっている。
「大丈夫だっちゃ。ちょっとガスが変なところに入ったっちゃ」
むせていたのは八兵衛。情が深く、人のいい八兵衛は体中毛深いので、歴史の教科書で見た原人のようである。それでいて表情からは、どことなく人の良さを感じさせる。
八兵衛を心配していたのは、弥吉。皮肉屋で怠け癖のある弥吉はぶっきらぼうだが、思いやり深い。弥吉の頭頂部から前にかけてはすっかり禿げあがり、どこまでがおでこで、どこからが頭か、さっぱり分からない。戦場から逃げ出してきた落ち武者のようだ。
二人のやり取りを聞いているのか、いないのか、一心不乱に作業を続けているのは金次郎。とにかく真面目で、休むことなく体を動かしている。金次郎は髪が細く、体毛も薄い。ここでは、それだけでも少し小ざっぱりして見える。
「見つからないですね、ガスの発生源」
金次郎は、八兵衛がむせていたのも無視して、そう二人に話しかけた。
「そうだな。くだらない石ばっかり見つかるのによ。まただよ、『君は僕の笑顔にイチコロさ』だって。誰がこんな言葉、真に受けて喜ぶんだよ」
弥吉は舌打ちしてから、その石を茶色い篭に投げた。
「早く見つけないと、すっかり腐りきってしまうかもしれないっちゃ。そうなったら、どうなっちまうっちゃ」
八兵衛もどうやら落ち着いたらしく、神妙な顔つきで、二人にそう答えた。
「以前に俺は経験したことがある。早く見つけないと、ひどい状況に追い込まれるぞ」
弥吉の声で、三人はまた、ガスの発生源であろう石を探す作業に集中した。
暗い洞窟の中で、心許ない松明のオレンジの明かりが滲んで揺れている。三人の身の丈は五尺ほど。等身大の黒い人影が動くたびに、壁に映る三人を巨大化させた不気味な影がかぶさってくるように揺れる。
空気は一年中、真夏でも冷たくて、ずっとここにいるとすっかり体は冷えてしまう。壁から染み出してくる水のせいで、いつも空気は湿っている。
なかなか目にはつかない、それでいて至る所に潜んでいる、深い洞窟の奥の奥。
働いているオッサン妖精たちは、みな前科者だ。罪を犯してしまったため、この洞窟まで流され過酷な労働に当てられている。彼らの髪はめったに切ることができないので伸びきっており、髭も三つ編みが結える程。栄養状態が良くないからだろうか、みんな痩せ細っている。見た目の年齢はかなり老けて見えるが、実際はいくつなのか分からない。
衣服はボロボロで隠すべきところは隠れているが、半裸だ。体は埃なのか土なのか分からない垢でまみれており、指で皮膚をこすると消しゴムのカスみたいに垢が出てくる。
妖精といっても、背中に羽もなければ、小さな三角帽子をかぶっているわけでもない。可愛らしさのかけらもない、ちょっと身長が低いくらいで、流刑の汚いオッサンそのものだ。
彼らの仕事は、洞窟をもっと奥へ奥へと掘り進めることだ。来る日も来る日も、ただそのことだけを繰り返している。洞窟の壁は硬いところもあれば、柔らかいところもある。傷つけたら取り返しのつかない箇所が多いので、掘るのは全て手作業である。そのことが、ここの労働をさらに過酷なものにしていた。彼らの爪はボロボロで、爪の中にはびっしりと茶色い土が詰まっていた。
弥吉がまた言葉入りの石を見つけた。
「お、こいつはどうだ。『あなたと話していると、きちんと孤独じゃなくなれる』だと。ちったぁ、マシじゃないか?」言葉を読み上げた弥吉は、八兵衛に石を下手で投げ渡す。
「そだなー。こいつはまだ生きとるし、使えそうだっちゃ。あの人に届けてあげるのが一番いいんじゃねえかっちゃ」八兵衛はそう言うと、石をピンクの篭に入れた。
弥吉がまた石を拾い上げる。石には、『君はこの夜景より美しい』と記されている。弥吉は、ちょっと臭すぎるだろと、しかめっ面をした。使い物にならない石が入っている茶色の篭に向かう。歩いていると、石ころに躓いた。舌打ちをしながら、悔し紛れにその石ころも拾う。
『僕のために、一生味噌汁を作ってくれ』
弥吉は少し離れた八兵衛に分かるよう、そちらを向いて大げさに溜め息をついてみせた。煤けた顔をしている八兵衛が顔をくしゃっとさせて、微笑む。こんなことを言って、喜ぶ女がいると思っているのか。その石も当然、茶色の篭に落とした。
その時、突然、空襲警報が鳴り出した。
「また空襲け。最近多いっちゃ」と八兵衛がぼやく。
「後片付けが大変になるなぁ」弥吉はうんざりした様子だった。
「今日こそは、やってくれると信じています」金次郎はいつも無心に奉行様を信じている。パラパラと帳簿をめくりながら落ち着かない様子で、壁に耳を当てている。
「奉行様も仕事の時はいんだけど、こと、女のことになると初心だっけなー。たまには、ビシッと頼むっちゃ。そうじゃないと、やり甲斐がないっちゃ」
奉行様は人はいいのだが、口下手で女の人にどんな言葉が響くのか分からない。恋愛マニュアル本なんかを読んで、そこに書いてある台詞を仕入れてきたりするが、使えないものばかりだ。もっと自分の言葉で姫様に伝えればいいのにと、いつも妖精たちは話している。
急に金次郎が注目せよと言わんばかりに手をあげた。
「今、奉行様が口にした言葉は、三日前に私たちがピンクの篭に入れた石です」
帳簿をポンと叩き、金次郎が喜びを抑えた口調で二人に報告した。
「やったー。やっぱり姫様と一緒なんだな。奉行様もやるときゃ、やるっちゃ」
八兵衛はボクシングでもするかのように、両手をパンチしながら、すっかり興奮してしまっている。
「フュッーーードーーン」
洞窟内に爆発音が響いてくる。爆弾が近くに落ちたのだ。
「なんだ、なんだ! 大丈夫かっちゃ?」
「ああ、あそこに大きなヒビが入った。危ないから離れよう」
姫からの反撃のようだった。奉行様は姫様に弱いので、ちょっとした言動にも大打撃を食らう。姫様の言葉は、奉行様の柔らかいところにすぐ命中する。それだけ奉行様は姫様にご執心なのだ。
「プシュー」
弥吉の忠告に三人がヒビの入った箇所から離れかけたとき、ヒビの隙間からガスが噴出し、腐ったような嫌な匂いが辺りにたち込めた。三人は顔を見合わせる。どうやら最近の洞窟の異臭や息苦しさの原因はこれだろうと、長年の勘で分かったのだ。
「見つけましたね。どうしましょうか」金次郎が緊張の面持ちで二人に言った。
「空襲が終わって、安全になったら掘ればいいっちゃ」八兵衛はわざとおちゃらけたような声で返事した。弥吉は唇を噛んで、苦悶の表情を浮かべている。噛んでいた唇を一度すぼめてから、口を開いた。
「今じゃなきゃダメだ。もう腐りかけてる。生きているうちに、生き生きしているうちに運ばなきゃダメだ」
弥吉はいつになく真剣だった。そう言ったきり弥吉も、二人も動かない。弥吉は金次郎と八兵衛の顔を見ている。八兵衛は下を向き、二人と目を合わせない。三人の間に流れる沈黙に、松明が大きく揺れている。
すると金次郎が突然素早く動き出し、そのヒビに手をかけた。弥吉はちらっと八兵衛を見てから、すぐに金次郎に加勢する。
「もうどうなっても知らんちゃが」
八兵衛は下を向いたまま怒鳴り、元来た道へ走り出した。そして、松明の下に置いてあった水泳用のゴーグルを三つ手にし戻ってきた。
「せめて、これくらいはつけんと危ないっちゃ」
弥吉は八兵衛の顔を見て、大きく頷く。その目は埃が入ったのか、熱いものが込み上げてきたのか、潤んだように光っている。ゴーグルを装着したオッサンたちは、ヒビの先にあるものを掘り出そうと必死になった。空襲はまだ続いている。
「どうだ、まだ生きてそうか」弥吉が問う。
「分かりません」金次郎が岩にかけた手に力を込めたまま苦しそうに答える。
もしこの感情が死んでしまっていたら、もう救いようがないかもしれない。死んでしまった感情は誰に届けることもできない。外に運び出すことでお奉行様は少しは楽になるかもしれないが、ゆっくりと腐りきって、再びそれが栄養になるのを待つしかない。誰かに向けられた、剥き出しの生きた感情は、生きているうちに相手に届けなくてはならない。たとえそれが、どんなに怖いことだとしても。
「せーの」
三人が力を合わせると、ヒビの入ったところから裂けて、岩の一部が取れた。
『心の中の満ち足りることなどないと思っていたところまで満ち足りてゆく。誰にも目にすることさえできないと思っていた砂漠まで潤ってゆく』
そう書いてある破片を、弥吉は急いで速達便である虹色の篭に入れた。篭は岩を入れるとすぐに、グインと坑道を上がっていく。すぐに戻り、再び三人で力を合わせる。
「せーの」
再び岩の一部が割れて取れた。
『砂漠というのは、本質的に美しさを内包しているものなんだ。そこは最も美しくなれる可能性のある場所だ。砂漠は君が君たる所以なんだよ』
割れた岩を手にしていた八兵衛が走って、虹色の篭に投げ入れる。その間にも、頭上で爆発音がして、三人の頭の上にパラパラと小石が降りかかってくる。早くしないと三人も危ないし、奉行様がいつまで姫様と一緒にいられるかも分からない。急がなければ。八兵衛が戻ってきて、再び掛け声を出す。
「せーの」
三人が力を合わせるたびに壁のヒビが大きく円状に広がっていく。妖精たちは何度も何度も、繰り返し力を合わせた。ヒビが少しずつ繋がっていく。
「せーの」
三人は、三人がこんな暗いところにやって来る前に、一緒だった人たちのことを思った。大切な人には、大切な人がいるうちに伝えなきゃいけないことがある。大切な人はずっとそばにいてくれるわけじゃない。だからこそ、今、伝えなければならないのだ。三人は大切な人に、今伝えたかった。その思いが、火事場の馬鹿力になる。
「うぉりゃーーー」
丸い大きな岩がゴロリとひっくり返る。
「ブッシャーーーーー」
そこから大量のガスが噴出する。三人はその風圧によろめき倒れた。ゴッホゴッホとむせかえり、鼻水を流しながらもすぐに立ち上がる。煙った空気を手で煽りながら、丸い大きな岩に走り寄る。抱きつくように岩にしがみつくと、丁寧に岩の表面をこすった。岩の裏には金が筋状に入っており、キラキラと文字になっていた。
『君が好き』
岩にはそう記されている。
「腐ってないか」弥吉の切羽詰まった声が響く。
「まだ生きてます」金次郎は顔をくしゃくしゃにしている。その顔は嬉しそうにも、泣いているようにも見えた。まだその言葉に伴う感情は生きている。生きていることがこんなに嬉しくて、泣き出したいなんて。
「よかったっちゃ、よかったっちゃ」八兵衛の水泳用ゴーグルから、その中に収まりきらない涙がこぼれている。八兵衛はどんだけ泣き虫なのだ。
「それんしても、大きいな。それだけお奉行様の恋心が募っているってことだな」弥吉は一人、懐かしいものに出会ったかのような表情をしている。弥吉にも、幸せにしたい女がきっといたのだ。
三人は急いで余計なところを削り落とし、なるべく綺麗な形にして、虹色の篭まで転がした。篭は岩の重さに一旦しなるように下がってから、力強く坑道を上がっていった。
「パン、パン」
八兵衛が二度手を叩き、それから手を合わせて御祈りしている。金次郎も弥吉もそうしたくなる気持ちは同じだった。奉行様の気持ちが姫に届いて、姫の中にいる可愛らしい妖精たちがこの石を受け取ってくれさえすれば。三人は急いで岩壁に耳を当てた。まさにそのとき、奉行様は姫様にその言葉を伝えた。
「君が好き」
洞窟の中を静寂が包んだ。その静けさは三人にはとても長く感じられた。頼む。
「私も好き」
姫様の可愛らしい声が壁から響いてくると、洞窟内には一つのダイナマイトが投げ込まれた。
「ウワー」
三人とも雄たけびを上げながら、大きな岩の陰にダイブして、地面に突っ伏した。
「ドッカーーーン」
粉塵と煙で三人の視界は何も見えなくなった。
少ししてから、「大丈夫か」と言う弥吉の呼びかけに、煙の中から「大丈夫っちゃ」「大丈夫です」と、八兵衛と金次郎の声が聞こえる。ゆっくりと、次第に視界が開けてくる。周囲がやたらとキラキラして明るい。煙が消えると、三人を囲んでいた岩や石は木端微塵に割れ、細かい粒状の金に変わっていた。
「オワー、金だー」いつも冷静な口調の金次郎もこんな風に叫べたのかという声で叫ぶ。あんなに汚れたもので溢れていたこの場所が、見事なくらい美しく輝いている。世界がまったくちがって見える。世界はこんなにも美しいのだ。
「やったな」「やりました」「やったっちゃ」
三人はそれぞれに言って、握手した。
「奉行様ばかりイイよな。俺も馴染みの女に会いてーなー」
弥吉が口にすると、三人は顔を見合わせて笑い合った。今だって、そんなに悪くない。三人はそう思った。