考えるとは、間にあるもの、理由や論理を見つけることであり、発見や発明、画期的な結論を見つけることとは、また少し別のことである。
発見や発明は、ひらめきという仮説によって生まれ、考えることはその証明の過程において働くものだ。
考えるとは、間にあるもの、理由や論理を見つけることであり、発見や発明、画期的な結論を見つけることとは、また少し別のことである。
発見や発明は、ひらめきという仮説によって生まれ、考えることはその証明の過程において働くものだ。
悲しいこと。生きてるとどうしても直面するけれど、理由がわからないこと、現在の状況がわからないことがいちばんキツい。想像して一喜一憂するしかないから。でも想像ってどこまでも膨らむんだよね。そしてその結果がプラスなのかマイナスなのかで将来が大きく変わる。自分だけの問題じゃないと尚更。
未来への想像は、希望や恐怖や不安となり、往々にして人が拘束される、人を不自由にさせる感覚に変わる。
考えることは想像すること、といっても過言ではないくらい。想像したとおりに人はなってきた。想像の集合体が人類の今であり、未来になってゆくのだろう。
昨日に引き続き鬼束ちひろさんのこと。
最近の彼女の一見奇怪にも見える言動を僕はあまり否定的には見ていない。一人の大人の女性として、とても魅力的な人なのだろうなあと考えている。
こちらもまた昨日に引き続き同じブログからの引用。
http://tod.cocolog-nifty.com/diary/2011/04/post-13dd.html
Twitter(ツイッター)では鬼束ちひろのぶっ飛んだ変わりようが、もっぱら話題のようだ。多くは失望の声だが、いったい皆さんは30歳のシンガー・ソングライターに何を期待しているのか。
鬼束ちひろはデビュー以来ずっと、俗っぽく言えば「メンヘル」系にくくられるような、個性的な歌詞を書きつづけており、彼女自身が、東芝EMI時代の、たとえば「流星群」のPVに登場するような自分のイメージは、完全に作られたものだと告白している。
そしてその「作られたイメージ」に、少なくとも数年間は協力して音楽活動をつづけられる程度に、鬼束ちひろという人間は良識や社会性のある人間ということだ。
ただ、内面的には有り余る個性をもつ女性歌手が、30歳になってもまだ、20代の「作られたイメージ」の頃と同じ、そのへんのOLみたいなコンサバなファッションで人前に登場したとすれば、その方が明らかに「痛い」だろう。
それともエキセントリックな鬼束ちひろの外見を、ネタにしてよろこんでいる人たちは、今どき女性シンガー・ソングライターに、清純さや清楚さ、処女性のようなものを求めているのだろうか。
そういった、自分の女性性をあえて押し殺しているような、清純で清楚な30歳過ぎの女性ミュージシャンにしか、プラスの評価ができない人たちの、あまりに時代錯誤な女性観の方が、はるかに「痛い」。
「ふつう」であることが、いかに「痛い」かを、理解できない人たちが多いということだ。
あるいは、人間にとって30歳を過ぎるということが、肉体的、精神的にどういうことなのか、まだ若すぎて実感できないのかもしれない。
鬼束ちひろは、最新アルバム『剣と楓』を聴くかぎり、かなりロックな方向へ作風の舵を切っているものの、『インソムニア』の頃と基本的に変わらないスタイルも維持している。
ソングライターとしては、幅が拡がっているだけで、スタイルがせまくなったわけではない。
演歌歌手風の新譜『剣と楓』のジャケットにしても、タトゥーにしても、鬼束ちひろは自分自身をすでにネタにしていることに自覚的である。
鬼束ちひろは、自分の変化に無自覚なまま、頭がおかしくなって暴走しているという見方しかできない人たちは、21歳にして「システムとしての孤独」を理解していた彼女の頭のよさに、まったくついていけていないだけ。
まあ、ベルサーチのボディコン姿の鬼束ちひろに、嫌悪感しか抱けないなら、秋元康のプロデュースするアイドル・ユニットでも応援していればいいと思う。
〜引用終わり〜
さて、概ね僕もこの人と同じような見解である。あのアイドルの方たちが、なぜそれほど人気が出るのか、正直なところあまり理解できていない。ただのお嬢ちゃんたちのように見えている。
一人の人として鬼束ちひろさんの方がずっと魅力的だと思うのだけど。
といいながら、元の方の大島麻衣さんに目下のところゾッコンです。不可抗力で、理不尽に、魅かれています。