チンパン草

新しいことは考えることから生まれない

 考えるとは、間にあるもの、理由や論理を見つけることであり、発見や発明、画期的な結論を見つけることとは、また少し別のことである。
 発見や発明は、ひらめきという仮説によって生まれ、考えることはその証明の過程において働くものだ。

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人類の絶滅

 地球の存続にとって、ヒトは既に邪魔な存在になっている。ということは、地球が絶滅するのではなく、それよりずっと早くヒトが絶滅するんだろう。

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想像の産物

 悲しいこと。生きてるとどうしても直面するけれど、理由がわからないこと、現在の状況がわからないことがいちばんキツい。想像して一喜一憂するしかないから。でも想像ってどこまでも膨らむんだよね。そしてその結果がプラスなのかマイナスなのかで将来が大きく変わる。自分だけの問題じゃないと尚更。

 未来への想像は、希望や恐怖や不安となり、往々にして人が拘束される、人を不自由にさせる感覚に変わる。
 考えることは想像すること、といっても過言ではないくらい。想像したとおりに人はなってきた。想像の集合体が人類の今であり、未来になってゆくのだろう。

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ズレから感情は発生する
 言葉のセンス。

 スギちゃんの動画を、ただ面白いと思って見ていたのだけど、言葉のセンスって観点でもう一回見てみると確かに言葉の選び方が素敵ですね。同じ話しても、言葉の選び方や話し方で全く面白くなくなりますからね。
 禿げ散らかした、ネグリジェ着た、おっさん、「禿げ散らかした」ってフレーズから「ネグリジェ着た」ってフレーズが次に来ることって、まずないし、その後にまた「おっさん」に戻るとか。
 言葉から頭にイメージするものと、次に来る言葉のギャップだとか、頭にイメージする絵とのギャップだとか、頭にイメージするエピソードのギャップだとかがいいんですよね。
 ワイルドな話は、一切よくよく考えるとワイルドではないのですが、その普段使われている「ワイルド」という言葉のスマシタ感じとエピソードの咬み合わなさがいいというか。
 ギャップは近すぎても、遠すぎても駄目で、上手に裏切らないといけないと思うんですけど、それがちょうどいい感じというか。
 笑いだとか、怒りだとか、感情が振れるのって、頭の中の予想だとか期待だとかとのズレで生まれるものですもんね。
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覚悟のつづき
これ以上どこかへ行きたければ、覚悟がなければいけない。
覚悟がなければ、どこへ行ったって、どこにも行けない。

覚悟の分だけ、先へ行ける。

結局、神様でもない僕たちにできることは、
後悔しない道を選ぶことではなく、選んだ道で後悔しないように頑張ることだけなのだ。
正しい選択をするのではない。正しい選択にするのだ。
イマココなのだ。

受け売りだけどね。



「僕みたいに勝負の世界に生きている人間には覚悟は必要ですが、僕が覚悟するのはいつも途中からです(笑)。つまり、負けを覚悟する。これはかなり勇気がいります。

もうちょっと肩の力を抜いてもいいかな、とも思うのですが、若いうちはとにかく突っ走るのだ、後先考えずに、と昔は思ってました。20代のうちは何やってもいいかな、犯罪以外は。ただし、後でツケが回ってくるのはそれこそ覚悟しないと。

おっさんになったかなあ、やっぱり。」


「負けを覚悟すると、負けに向かっていきませんか?ちょっと違うかな。
負けを意識すると、というか、負けるって思うと、負けるっていうか。
負けを覚悟した上で、負けるということになったとしてもそれを受け入れる覚悟はありきの上で、負けるということをぽいっと横に置いておいて、平常心でいられるような強さが欲しいです。

20代のうちは、犯罪だって、自分がそれをすることは正しいことだと思え、人に迷惑をかけることなく、捕まらずにバックれることができるなら、してもいいかなと思ったり、思わなかったり。

でも僕は本当にとても臆病な人間なので、めったにそんなことはしませんが。
罪と罰。罰が怖いです。 」


「んー、あなたの言っていることはちょっとニュアンスが違うな。負けるつもりで勝負に臨む人はいません。ただ勝負の世界に負けはつきもの。僕が負けを覚悟するのは最善の結果を残すためです。負けることが目的ではありません。

若いころに法に抵触することをしていしまうのはある種当たり前のことです。「理由なき反抗」って奴。カウンター・カルチャーみたいなものです。ただ、いかに些細な犯罪(もしくは同義的な罪)でもその後のあなたを長いこと苦しめることになるでしょう。それがツケです。僕が20代のうちにいくら間違えても構わないというのは、本当の人生の転換点はまだその先にある、ってことです。だから20代のうちにいろんな経験を積むのは本当に大事で自分を豊かにする。しかし、物事はそうそう自分の都合のいいほうにだけ進むわけじゃないけど。

なんか説教くさいかなあ。」


「負ける覚悟について、僕が伝えたかったことは、あなたが書いてくれていることと同じつもりです。私の伝え方が悪かったのでしょう。

法に抵触するといっても、そんなに大げさなことではないのです。ただ自分に素直になった結果、それがたまたま法とずれていただけのことというか。
車が来ずに100%安全だと思える歩行者信号を無視したり、煙草は20歳以上は違法ではないですが、仮に違法になったとして、それでも今日は煙草がある方が素敵な夜になるなと思ったら吸ってしまうとか、反抗とも言えないようなものなんです。ただ僕にとって悪いことではないだけなんです。ちょっとしたあまのじゃくな心はあるかもしれませんが。

どの程度の罪悪感を背負いこむことになるかという点で、法の罪の重い、軽いとは別に、自分の意識として罪だと判断しているかどうかというもう一つの軸があるんです。

小学生のときに好奇心でスクールゾーンにあるスーパーで10円のガムを万引きしたことがありました。その日ずっと罪の意識に苛まれたのを今でも思い出します。あまりの罪悪感に、こんなに苦しむくらいなら万引きなんてしない方がよっぽど楽だと思いました。後にも先にも、万引きをしたのはこのときだけです。僕は万引きは悪いことだと思っていたからです。

罪と罰という言葉を使ったときに、僕はドストエフスキーの小説のラスコーリニコフのことが頭にありました。ツケというものの存在は最近かなり感じるようになってきました。自分のしたことは自分で背負って生きていくしかないという当たり前のことが、ツケと呼ばれるものなんだと思います。

20代のうちにいろんな経験を積むのは本当に大事で自分を豊かにする、というのは、まだ未来からの視点でもって自分を見れないのでどれくらいの重みがあるのかは分かりませんが、でもきっとその通りなんだろうと思います。
僕はどうしても先を読んで、そのいろんな経験を積むというメリットと、ツケを背負い込むことになるかもしれないリスクとのバランスを考えてしまうのです。どちらが自分にとってよい人生なのか。そして、そんなことを考えてしまい、小さくまとまろうとする自分のことが好きになりきれずにいたりもするんです。この部分に関しては、どうしても昔から自分のことを許しきることができないでいます。それは今もきっと変わっていません。

物事が自分の都合のいい方にだけ動かないことに苛立ったりも、もちろんします。でも物事は自分のためにあるわけではないのだから、考えてみれば当たり前のことなんです。

それでも何とか諦めずに自分と他者との折り合いの付けられる場所を見つけていきたいです。

なんだか途中から自分の決意表明みたいになってしまって、だいぶ論点がずれてしまったようにも思います。
本当の人生の転換点というのはどのようなものなのか思案してみます。でもきっと思案しても仕方のないことなのかもしれないですね。」


「なんだかうらやましいです。未来のある人は(笑)。

人生の転換点は、物凄い閉塞感の中でオレの人生はこのまま終わってしまうのだろうか、なんてときに限ってひょいとやってきたりします。有名な、村上春樹が29歳のときにヤクルト戦を見ていて不意に小説を書こうと思い立った、みたいに。ちょうど今、インタビュー集を読んでいるところですが。あとはヒマだったら僕の自伝(笑)でも読んでみてください。

いずれにしてもただじっと待っているだけじゃなくて、ふと思いついたら些細なことでもいいから自分からアクションを起こしてみることです。お楽しみに。」


「ありがとうございます。
村上春樹さんのそのエピソード知ってました。自分にもそんなことが起こらないかなと思っているうちに、もうすぐ29歳です。
インタビュー集って、『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』のことですかね。僕も先日買ってきました。まだ手付かずですが。

自伝、読んでみます。」
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鬼束ちひろさんとAKB48

 昨日に引き続き鬼束ちひろさんのこと。
 最近の彼女の一見奇怪にも見える言動を僕はあまり否定的には見ていない。一人の大人の女性として、とても魅力的な人なのだろうなあと考えている。

 こちらもまた昨日に引き続き同じブログからの引用。
http://tod.cocolog-nifty.com/diary/2011/04/post-13dd.html

 

Twitter(ツイッター)では鬼束ちひろのぶっ飛んだ変わりようが、もっぱら話題のようだ。多くは失望の声だが、いったい皆さんは30歳のシンガー・ソングライターに何を期待しているのか。

鬼束ちひろはデビュー以来ずっと、俗っぽく言えば「メンヘル」系にくくられるような、個性的な歌詞を書きつづけており、彼女自身が、東芝EMI時代の、たとえば「流星群」のPVに登場するような自分のイメージは、完全に作られたものだと告白している。

そしてその「作られたイメージ」に、少なくとも数年間は協力して音楽活動をつづけられる程度に、鬼束ちひろという人間は良識や社会性のある人間ということだ。

ただ、内面的には有り余る個性をもつ女性歌手が、30歳になってもまだ、20代の「作られたイメージ」の頃と同じ、そのへんのOLみたいなコンサバなファッションで人前に登場したとすれば、その方が明らかに「痛い」だろう。

それともエキセントリックな鬼束ちひろの外見を、ネタにしてよろこんでいる人たちは、今どき女性シンガー・ソングライターに、清純さや清楚さ、処女性のようなものを求めているのだろうか。

そういった、自分の女性性をあえて押し殺しているような、清純で清楚な30歳過ぎの女性ミュージシャンにしか、プラスの評価ができない人たちの、あまりに時代錯誤な女性観の方が、はるかに「痛い」。

「ふつう」であることが、いかに「痛い」かを、理解できない人たちが多いということだ。

あるいは、人間にとって30歳を過ぎるということが、肉体的、精神的にどういうことなのか、まだ若すぎて実感できないのかもしれない。

鬼束ちひろは、最新アルバム『剣と楓』を聴くかぎり、かなりロックな方向へ作風の舵を切っているものの、『インソムニア』の頃と基本的に変わらないスタイルも維持している。

ソングライターとしては、幅が拡がっているだけで、スタイルがせまくなったわけではない。

演歌歌手風の新譜『剣と楓』のジャケットにしても、タトゥーにしても、鬼束ちひろは自分自身をすでにネタにしていることに自覚的である。

鬼束ちひろは、自分の変化に無自覚なまま、頭がおかしくなって暴走しているという見方しかできない人たちは、21歳にして「システムとしての孤独」を理解していた彼女の頭のよさに、まったくついていけていないだけ。

まあ、ベルサーチのボディコン姿の鬼束ちひろに、嫌悪感しか抱けないなら、秋元康のプロデュースするアイドル・ユニットでも応援していればいいと思う。

 〜引用終わり〜


 さて、概ね僕もこの人と同じような見解である。あのアイドルの方たちが、なぜそれほど人気が出るのか、正直なところあまり理解できていない。ただのお嬢ちゃんたちのように見えている。
 一人の人として鬼束ちひろさんの方がずっと魅力的だと思うのだけど。
 といいながら、元の方の大島麻衣さんに目下のところゾッコンです。不可抗力で、理不尽に、魅かれています。

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